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阿久留王とヤマトタケル ブログトップ

アクルの首 [阿久留王とヤマトタケル]

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青年会の研修旅行で鹿島神宮を参拝した。
宝物館で念願の阿久留王の首と面会。ヤマトが恐れた蝦夷の英雄の顔は眼光鋭く、威圧感たっぷり。
我がAQULSもレースでは阿久留王のごとくありたい。

君去らず大橋の二人 [阿久留王とヤマトタケル]

夕方時間が出来たので走りに出る。
今日はプリンス。広域農道10㌔はTT的に。
まわるなぁ! と思ったら今日は南よりの風、追い風だった。
横田田んぼは回転で。
アクアライン連絡道「君去らず大橋」で日没時間切れ。引き返した。
復路はキツイ向かい風になり、田んぼの中の農道では苦しんだ。
信号の度にスプリントをかけ、インターバル練習。一時間半の短い練習だったが、そこそこ追い込んで走れた。

走行距離:41㌔



さて、折り返しの「君去らず大橋」に恋する二人がいる。

ヤマトタケルと后・弟橘媛(オトタチバナヒメ)の銅像二体がそれ。

朝廷の軍事遠征には女性の同行は許されなかった。
唯一同行することの出来る存在が、荒ぶる土地土地の神を鎮めるため、時には生贄の役も引き受けねばならない「巫女」である。
ヤマトタケルの蝦夷征伐に言い知れぬ不安を抱いていた后のオトタチバナは、愛するタケルとの寸時の別離にさえ耐え切れず、后としての地位を捨て「巫女」として遠征軍に加わる。オトタチバナは有能な「巫女」でもあった。

蝦夷遠征軍は数度の危機を乗り越えながらも東国を平定しつつ、三浦半島の走水に至る。東京湾をはさみ、阿久留の本拠地の房総は目前だ。
しかし、大軍を率いるタケルの不遜な態度に海神が怒り、海は荒れ、遠征軍は翻弄される。神を鎮めるため、オトタチバナは祈り、その身を海に投じた・・・。
海は静まり、遠征軍はバラバラになりながらも房総への上陸を成功させる。オトタチバナは還らなかった。
木更津に上陸したタケルは愛する后の面影をしのび、何日もその地を去らなかったという。

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君不去→きみさらず→きさらづ。
木更津の地名の由来はこの故事から来たものとされている。
また、オトタチバナが着ていた衣の袖が流れ着いた場所が袖ヶ浦だと言われ、その地名が生まれた。

木更津市内、県立上総博物館のある太田山は征討軍の本営が置かれた場所で、ここにある「君さらずタワー」の先端にも二人の銅像が向かい合って立ってる。昔から太田山は「恋の森」と呼ばれ、桜の名所として親しまれている。

オトタチバナの予感は当たり、ヤマトタケルは大和に帰ることは出来なかった。東征後、滋賀県伊吹山の神を鎮めようとして病を得て生涯を終えてしまう。
海神を怒らせることがなかったらという「もし」があるならば、伊吹山の災難をオトタチバナが防いだ可能性は大きい。その場合、神話の世界も相当変わったはず。
そう考えて想像をめぐらすのは楽しい。

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袖ヶ浦 滝の口「小高神社」 [阿久留王とヤマトタケル]

日曜の袖ヶ浦周回練習のあと、滝の口の「小高神社」に寄ってみた。館山道木更津北IC至近、小櫃川の南岸の段丘の高台に「小高神社」はある。
ここにも上総の蝦夷・阿久留王とヤマトタケルにまつわる伝説が残っている。

社伝には
「小高神社は滝の口の氏神社で、かつては小鷹大明神とよばれていた。日本武尊が東征の折にこの地で賊を平定したことにちなんで創建され、寛和二年(986)には社殿を再建したと伝えられている」
とある。

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ヤマトタケルが平定した「賊」こそが上総の先住民である蝦夷の阿久留王の一族である。
ヤマト朝廷の支配が関東におよんだ時、朝廷の前進基地としてこの高台に防御施設を施した皇居(皇子が支配のため赴任したため皇居と呼ぶ)が建てられた。

蝦夷人は縄文人、朝廷人は弥生人である。
狩猟に頼る蝦夷・阿久留と、蝦夷の狩猟の場を切り開いて田に変えて収穫を得て生きる弥生人の間に争いが起こったのは当然だった。
圧迫され続けた阿久留ら蝦夷が蜂起し、最初に襲ったのがこの皇居となった。

緒戦に敗れ、上総支配の拠点を潰されたヤマト朝廷はこのことにショックを受け、ヤマトタケルを将軍とした大軍団を東方地域の征服に派遣する。
結果、鹿野山を拠点にして抵抗する阿久留王との間に「征夷」の歴史上最大の戦いが繰り広げられた。
軍事国家の組織された強大な大軍を相手に阿久留王はよく戦い、数度にわたって勝利し、ヤマトタケルを恐怖させる。
阿久留王は敗れるが、阿久留王の復活を恐れたヤマトタケルはその体を八つに切り刻み、バラバラに葬ったという。
滅ぼされた上総の蝦夷は「鬼」と恐れられ、あるいは「悪郎」と軽蔑され、歴史には「賊」として刻まれることになった。

以後、東征はたびたび繰り返され、その指揮官は「征夷大将軍」と呼ばれる。蝦夷が完全に滅ぼされても朝廷の最高軍事権力者は「征夷大将軍」の称号と位を戴くのが恒例になる。明治に至るまで中央の蝦夷に対する圧迫と恐怖は消えなかったわけだ。

ヤマト朝廷の征西に続く東征は阿久留平定で一応の完成をみて、日本国が誕生する。
日本の誕生に大きく関わった・・・。
そんな場所に滝の口の「小高神社」は建っている。

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阿久留サイクリング~Vientと鹿野山ポタ [阿久留王とヤマトタケル]

春みたいな陽気。
強風は春一番を思い出させた。半袖でもじゅうぶん走れる季節はずれの一日だった。

今日はBeeの6名にTeam Vientさんの7名を加えて鹿野山へサイクリングに出かけた。Vientは市原のサイクリングクラブ。結成間もない若いクラブなので盛り上りも雰囲気もとてもいい感じのみなさんだった。
どなたもしっかり走れるので、いずれ競技やレースに興味を持ってくれると楽しいですね。

サイクリングのテーマは「阿久留王」の史跡めぐり。
神話の時代。阿久留王はヤマト朝廷の東征(侵略)で八つ裂きにされ、鬼に変えられた悲劇の英雄、ヤマトタケルに滅ぼされた上総地方の蝦夷の王です。
蝦夷東征として有名なのは平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂とアテルイの物語ですが、それを遥かに凌ぐ規模の歴史が上総地方には残っています。
日本国誕生に大きく関わった阿久留王とヤマトタケル。その舞台が鹿野山です。

さて、サイクリングは上総を出発し、激坂の法木山を越えて鹿野山福岡登山道へ。
福岡口上部にある「阿久留王塚」にお参り。神野寺に参拝、鹿野山マザー牧場に登り上総港へ。時間切れのため木更津市内に点在するヤマトタケルの史跡見学は割愛して、鹿野山の南側を走り、大野台で〆て上総へ帰還した。

走行距離:63キロ
要所要所でアタックのかけ合いをしながらも、のんびりしたサイクリングだった。

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↑Nantaro宅前で。鹿野山で一名が合流して13名でサイクリング。

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↑阿久留王塚。古い古墳。阿久留の復活を恐れたヤマトタケルは体を八つに切り裂き、別々に埋めた。この塚には胴が埋葬されている。

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↑神野寺直下のアクル坂を登る。

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↑神野寺奥の院。天狗の鉄下駄はスポーツ上達と足腰の強化にご利益があるらしい。撫で回してきました。

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↑↓鹿野山頂上のマザー牧場前で。

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↑マザー牧場からの眺め。

「フォーティ・ワン」の初サイクリングの印象は、
①剛性たっぷり。アルミに負けない硬さを持っている。
②登りはわずかにプリンスSLを上回る感じ。これは乗り手に力がないから。やっぱり登りはつらい。
③アタックのかかりはイイ。平坦、登りに関係なく脚がなくなるまで加速し続ける感覚は最高。強力な脚が欲しい。
④ダウンヒルは軽量な分、浮くような感じを受けた。強い横風の影響かもしれない。ダウンヒルの安定感はプリンスSLが一枚上手。それでも十二分に速いけど。
⑤僕が過去体験した(チョイ乗りだけど)軽量カーボンフレームから感じた不安定さやヒラヒラした感じは全く受けない。芯のあるしっかりした走りは僕の好み。アルミの走行感が染み付いてる僕にも違和感はなかった。いい選択だったと思う。
⑥マドンに乗る自分の姿が想像できない。長い間アンチ・トレックの急先鋒だったので馴れるまでしばらく時間がかかりそうです。みんなはどんな風に見たんだろう?

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